西海通信 立教169年5月号 |
「縦の伝道」とは、子供に信仰の喜びというものを伝えることです。この他にも表現の仕方はあるかもしれませんけれども、一番的を得ている表現だと思います。広い意味で申しましたならば、私たち育成会員が、少年会員に対して、信仰の喜びということを伝えることであります。子供というものは、親のすることをよく見ているのであります。又、周りの大人のすることも、よく見ております。そして、その親たちが、喜んでしていること、楽しんでしていること、又、一生懸命していることを見習って自分たちもしようとするものなのであります。
昭和四十二年十月二十九日、二代真柱様は少年会の各団の団長さんを一堂に集めて、初めて「少年会第一回団長講習会」を御開催下さいました。そのお言葉に「伝道という上に於いて一番大切な補導者、補導者という言葉が悪ければ、感化を与える人でもいいでしょう。また、指導者でも何でもいいです、最も大切なその補導者というものは、これは当然親なのであります。肉親なのであります。」と仰せ下さいました。
縦の伝道の主軸というものは、親なのであります。親が信仰に喜びを持ち、そして、それを子供に伝えていくわけであります。親が信仰するということに対して喜びを持たなければ、信仰の喜びというものは伝わらないわけであります。その喜びの種というものは、親神様が、たくさんお与え下さっています。私たちの周囲には様々な事が起きています。その中には必ず、親神様の親心というものが必ずある、その中に親がまず一生懸命に喜びを探して、そして感じ取って、そのことを、その喜びを子供に伝えるために、いかに苦心をし、努力をするかということが、縦の伝道における要の点だと思います。
信仰初代の方々は節を見せられて入信し、段々と御守護頂く中で信仰を固めてこられました。そういう方々がほとんどでしょう。また、ここにおられる方々もそうでしょうが、多くの方々が、自分が節をお見せ頂いて信仰に目覚めたという方がたくさんおられます。ですから、
「子供も節に遭えばいずれ分かってくるだろう」
「子供の頃からお道のことをいちいち教えなくてもいつか分かるだろう」
というような考え方や、また、自分は結構な信仰を一生懸命にさせて頂くが、子供が、このお道を通るかどうかということは、本人が決めるんだというような考え方を見聞きすることがあります。一見、自主性を尊重しているようにも思えますし、また、信仰ということは、嫌々、無理矢理させることでもありませんので、極論としては正しいのかもしれません。それで理屈としては立つのかもしれません。しかし、道は末代とお聞かせ頂きます。
教祖伝逸話篇に
「神様はなあ、『親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち受けている。』と、仰っしゃりますねで。それで、一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで。人々の心の理によって、一代の者もあれば、二代三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて、悪いんねんの者でも白いんねんになるねで。」
(逸話篇九〇「一代より二代」抜粋)
というお話があります。神様は親にいんねんをつけて子の出てくるのを待っておられるのです。ある人にいんねんを付けてお道へ引き寄せ、その子、孫と子孫末代までもたすけ上げてやりたい、末代かけて道の喜びを与えてやろうという深い思召しがそこにあります。そして、代を重ねて信仰していくうちに、段々と理が深くなって悪いんねんも、白いんねんに段々と切り替えて頂けるんだ。このように悟らせて頂けるのであります。それぞれの心の理によって一代限りで信仰が終わってしまう者もあれば、また二代、三代と続き末代、信仰が続くものもある。そのように心の理によって続いていくのだというふうに仰っているとも悟れるわけであります。
親神様が、親にいんねんをつけて子の出てくるのを待っていて下さるのですから、自分は一生懸命に通るけれども、子供はその自主性に任せるということは、親神様にたいして申し訳ないことだと思います。積極的に信仰の喜びということを伝えるために子供に語りかけ、共に歩み、やがては子供がそれこそ自主的にこの結構なお道についてくれるように育てていくのが私たち親の立場にある者の責任であると思います。
私には五歳の長男と、三歳の長女がおります。まだまだ小さい子供ではありますが、将来この道にしっかりと尽くすことの出来るような人間になってほしいと思いまして、日々育てている最中であります。私は御用の都合がつく限り夕づとめは必ず家族揃って皆、本部の夕づとめに参拝へ行かせてもらうように心がけております。ある日、夕づとめに参拝しておりましたら長男が皆より早くサッサッサとお手を振るんです。それを見た瞬間にしまったと、えらいことを覚えさせたと思いました。というのは、それまで、おつとめ時間に五分ほど遅れて行くと、回数を合わせるためにサササッと子供達と一緒に手を振ってやっていたんです。これが子供にはそうしてもいいんだと、自分の都合で勝手にしていいんだというようにとらえたのでしょう。
修養科の一期講師をつとめた折、おつとめに遅れた場合にはどうすればいいのかという質問があったら、という話題がありました。すると主任先生が教えて下さるには「おつとめには遅れないように行きなさい。それでも無理な場合は、まずは皆に途中からでもいいから合わせておつとめをし、すべて終わってから自分が足りないと思えば、もう一度すればいいんだ」と教えて頂いて、その通り修養科生さんには返答していたのですが、自分ではそんなことをせずに勝手なおつとめをしていたということですね。それが見事に子供に写ってしまったんです。
最初にも申し上げましたように、子供というのは、本当に親のすることをよく見ています。そして真似をします。ちょっとした仕草や、ものの言い方まで本当に親とそっくりになってしまうことがあります。言い換えれば、子供には親の姿が写るという特性があるわけであります。
おさしづに、
『もう道というは、小さい時から心寫さにゃならん。そこえく年取れてからどうんもならん。世上へ心寫し世上からどう渡りたら、この道付き難くい。〈中略〉小さい時から心赴かして、これはどんなことでも出け。」(明治
・ ・ )
とあります。大人になって節に遭ってからではなく、小さい時から心を写してくれと仰るわけであります。それこそ大人になって世間に心が向いてからでは遅いのであります。本当に小さい頃から心を写すようにと仰って頂いているのであります。それでは、どういう心を写すのか、私のようにしょうもないところが写ってしまっては、どうしようもありません。親の信仰、それも喜ぶ姿です。喜びの心をもってこの道を通る姿を写してくれと教えられるものと悟らせて頂きます。
気が張っているような処から家庭に帰りますと、ホッと致します。スッと気が緩むんです。ですから、所属の教会、また上級教会の月次祭参拝から帰って、ホッとしたときに、気がゆるんで「会長さん、今日はしんどい事言われたなあ。そんなこといわれても無理だ」と、ポロッと本音が出てしまうかもしれません。また「今日は疲れたな、たまには遊びに行きたいな。」と、会社勤めの方であれば、日曜日に参拝に行って、ふとそういった言葉が出てしまうかも分かりません。また、ひのきしんに行った帰り、今日は疲れたなという言葉もうっかりすれば出てしまうことがあるかもしれません。一生懸命につとめてるが故に、ほっとすると、ついつい愚痴が出てしまう。また、懸命にひのきしんをしたからこそ、ふと疲れたなという言葉が出てしまうことがあるのかもしれません。しかし、子供というのは、そういうところもよく見ています。それぞれ皆さん心当たりがあるのではないでしょうか。そんな愚痴を言うなら、行かなければいいのに、そんなにひのきしんがしんどいと言うのなら少しぐらい手を抜けばいいのに、と思ってしまうかもしれません。
ですから教会で御用をつとめて家庭へ戻る、そして一息つく前に、ついてからでも結構ですが、大切な御用をつとめて頂きたいのす。それは、子供に今日の有り難さをまずは伝えるということです。今日は家族揃って教会へ参拝させてもらって有難いな。みんな元気にひのきしんさせて頂いた、そんな結構な体を貸して頂いて有難いな、というように一言の言葉を添えて、そして信仰の喜びということを伝える努力をして頂きたいのであります。
明治 年2月 日のおさしづ(中山たまへ身上御障りに付伺)に、
『子供たりといえども一つの理、日々の處の理を以て育て。言葉一つの理によって、何か一つの理を聞いて一つの理が治まるで。』
と仰せ下さいます。子供たりといえど一つの理。たまへ様は大きな理のあるお方であります。このお方のことを仰ったおさしづでありますが、大きく捉えるならば、この道に繋がる一人一人の子供の育成についてのおさしづとも受け取れるのであります。この道に繋がる子供というのは、親神様にお引き寄せ頂いた理のある子供であります。子供だから分からないだろうと思わず、成人に応じて日々言葉一つをかけて育ててくれと仰るのであります。心写さにゃならんと仰せ下さるということは、日々に行いや言葉を、意識しながら子供に写してくれということであります。その苦心、努力を「縦の伝道」と呼ぶのだと思うのです。
・・まず大人が育たなければ・・
先ほど申しました少年会第一回団長会の席上で二代真柱様は、信仰における躾ということを、裸で生まれてくる子供に服を着させることに例えてお話し下さり、そのあと次のように仰せ下されています。「親の信仰をそのままで放っておいたならば、子供はどういうふうに成人していくであろうか。あたかも真っ裸で大きくなっていくのと同じであります。そういうような状態になるのは自然の勢いでありますが、それで良いのであるかを、もう一度ふり返って頂きたい」裸のままでも、大人になって子孫を残すことは出来るかもしれませんけれども、自然の恵みだけで育っていくならば長命することは出来ないのであります。 それと同様、親は信仰するが、子供を信仰の上でしつけることなく、放っておいたならばどういうことになるか。一応はこの道の信仰についてくれるかも分かりません。しかし、熱心に信仰をするようになるか、教会の中心となって働くことが出来るか、縁の下の力持ちになれるかと申しますと、これは期待が出来ないわけであります。子供の成長に応じた信仰上の躾がいかに大切であるかということをお仕込み頂いたのです。
それでは、道の上での躾、縦の伝道における躾ということにおいて私たちが心すべき点はどういうことであるでしょうか。子供達を立派なようぼくに育て上げるということを考えるならば、神一条ということをしつけることが大切だと思うのであります。神一条ということは、親神様の思召し通りに自らの心を治めることです。行動の基準、考え方、心の持ち方の基準を親神様の思召しと同じくすることです。こんな時、教祖ならばどうなされるであろうか、親神様はどうすればお喜び下さるのかということを、物事を判断するときに考えることです。移ろいやすいこの世の中にあって、変わることのない親神様の思召しに基づく神一条ということが、どんなに心強く、力強いことであるかということを、事ある毎に伝えて、躾をしていきたいものであります。
私は今、本部青年という立場を頂いて、御用をつとめさせて頂いております。本部在籍者ですので、月に数回、神殿、教祖殿、祖霊殿の当番をさせて頂いています。当番を勤めますと、帰りに「おさがり」を一袋頂きます。以前私が詰所に住んでおりました頃、そのおさがりはいつも教養掛の先生にお渡しして、修養科生さんなり、身上の方に分けて頂くようにお願いしていました。
ある日、私が当番から帰りますと、詰所に一時期住込んでおられたご婦人さんが私のことを待っておられました。その方は非常に熱心な方でありまして、教会長ではないのですが、自分が丹精してる信者さんもおられるという本当に熱心な方でした。話を聞きますと、おさがりをひとつ分けて欲しいと言われます。訳を伺うと丹精している信者さんが重篤な状態になったので、おたすけに行きたい。それで、おさがりが欲しいと言われたのでした。おさがりの中からリンゴを選び、持って行かれました。数日後、再びその方にお会いしました。 おたすけに駆けつけたら、もう水も喉を越さんという状態で、危篤状態だったそうです。本当に水も何も喉を通らんと言うて苦しんでおられたそうであります。そこへおさがりのリンゴをすって搾った汁を勧めると、なんと、美味しい、美味しいと言って飲めたということです。しかし、その後しばらくして出直されたそうです。しかし、水も飲めないところを本当に最後に有難いものを頂けたと言って、御家族が大層喜んでおられたという報告をして下さいました。私はその話を聞いて何と素晴らしい信仰を持っておられるんだと、本当に大きな節の中、しっかりと喜んでおられる、そういう信仰を素晴らしいなと思いまして、大変胸を打たれました。
次のようにおさしづにあります。
『満足は心の理、優しき者は日々満足。満足は小さいものでも、世上大き理に成る。これより大き理は無い。満足廣く通り、不足はあちら縮める、こちら狭ばむ。時によれば取れて退く。満足というものは、あちらでも喜ぶ、こちらでも喜ぶ。喜ぶ理は天の理に適う。適うから盛ん。』(明治
年7月 日)
節を通して喜べることがこの道の素晴らしいところでもあります。
では、このような信仰はどのようにして培うのでしょうか。それは、日々の喜びと感謝の積み重ねのうえにこそあると思います。子供達の先長い人生の中、順調に進むことばかりではないはずです。大きな節を見せて下さる場面もあります。そうした時に、親心を悟り、感謝できる信仰を子供達に持たせてやりたいと切に願います。その為に、親神様の御守護を平素から教え、信仰の喜び、有難さを日々子供の心に写す努力が必要なのです。
先日、ある会議で信仰の元一日を伝えるという話題が出ました。これはその会議で、ある大教会長さんから聞いた話です。部内教会長の息子さんがなかなかお道に寄りつかない、嫌がっているということでしたが、やっとのことで修養科入学になったそうです。父親である会長は大層喜んだそうです。しかし、その息子にしてみれば「これで最後だ。これが最後の親孝行。もう、この先は教会とは縁を切る」という心づもりで修養科へ入ったそうです。が、修養科へ通う中、詰所で色々な先生からその家の信仰の元一日や通ってきた道すがらということを様々に聞かせてもらったそうです。今まで、親からそんなことは聞いたことがなかった、そんなことならば、そんな簡単に道から縁を切れないじゃないかと思い、そして道に繋がってきたそうです。
この話、その青年さんと大教会長さんが、しっかり話をしたという証拠だと思います。しっかりと今、道を通っている方だと、私は勝手に思っているわけであります。家の信仰の元一日というものは、大変大切なことであります。又、代々と通ってきた道すがらというものも、大変大切であります。その大変大切なことを親から知らされていなかった。だから、なぜ教会生活を送らなければいけないのか、周りの友達がしていないような信仰生活を何故しなければいけないのか、という疑問が若いうちに芽生えてきたのだと思うのであります。 私が一昨年、一期講師に行かせて頂いた時に、信仰相談といって、全員と面談をすることがあるんですけれども、その時に、親譲りの人に自分の家の信仰のきっかけ、元一日を知っているかということを皆に聞きました。すると、知っている人はほんの一握りです。八割九割の人が知りません。なんで信仰しているのか分からない、きっかけが分からないということでありました。大変驚いたわけであります。一人や二人だったら、そんなこともあるかと思いますが、まったく知らないわけであります。やはり、節をむかえた時に、理の思案をする時において、大変大切な事柄でありますので、是非とも親なり、会長さんなりに訪ねて、一日も早く、分からなくならないうちに、聞いておくように進めておいた次第であります。是非とも、皆様方も次の代へ我が家の信仰の始まり、また、道すがら。又信者さんの子弟へも、その家の信仰の始まりやら、道すがらというもの、これは、余り小さい時からは無理かも分かりませんが、中学生くらいになったらはっきり分かるわけであります。しっかりと信仰の流れや、その本人の頂いた大きな御守護もお伝え頂きたいのであります。
縦の伝道大学講座という講座が以前ございました。少年会長様であられた前真柱様はこう仰せられました。「子供を指導するに当たり、子供が自ら育てて貰いやすい子供になる、育つという事に関心を持てるような子供になるよう指導してもらいたい。それが為には、指導する立場にある我々、皆さん方も親神様の思召しからするなら、まだまだ未熟な者であるとして、自ら育つ努力をする事によって、その道を通して、その実行を通して、子供が育ってくるという理合いをよくご思案頂きたいと思うのであります。」
私たち親の立場にある者が、まだまだ未熟な者であるとして、自ら育つ努力、実行をするわけであります。そういう姿を通して子供が育ってくる。育てて貰いやすい子供になる。
子供に矛盾した姿を見せる、人間だから御教えを完全にそのまま実行できない、ひながたをひながた通り完全には通ることはできない、人間だから仕方がないといって諦めるのではなく、私たちが、思召しに添わない心遣いや、行いをしてしまった時に、反省して、親神様に心からお詫び申し上げ、そして心遣いを改めるということをする。このことも、子供には伝わるのです。御教え通り通ろうと日々努力をする。でも時々間違ってしまう。それを反省して改めていく。そうしたことを見て、感じて子供は自分もそれを見習おうとする。ひいては育てて貰いやすい子供になる。ということであります。私たち親の立場にある者が、喜んで信仰させて頂くこと、こつこつと道を通らせて頂くこと。又、子供に親の背中を見せて通ることは当然のことでありますが、その信仰を伝えるために、意識をして、努力をする。苦心をして、骨を折るということが、縦の伝道であります。この労を惜しまない、手間暇を惜しまないということが、縦の伝道の基本であるということを、どうかご思案頂きたいのです。
・・少年会創設の思い・・
さて、天理教少年会では毎年、活動方針を定めております。本年は、「教祖のひながたを伝え、教えを素直に実行する子供を育てよう〜創立四十周年に相応しい活動の展開〜」そして、四つの重点項目を定めております。
「家族揃っておぢばがえり」
「教会おとまり会と親子参拝の実施」
「活動を推進するわかぎの育成」
「講習会、研修会を通した育成会員の成人」
そして、教祖百二十年祭こどもおぢばがえりに十万人の大増員、を打ち出させて頂きました。
この、教祖のひながたを伝え、教えを素直に実行する子供を育てよう。ということは、これは少年会の創設の目的そのものであります。教祖のひながたを伝えるというのは、身を以て行うこと。子供に分かるように、言葉も添えて伝える、色々な努力をするということをひっくるめて、教祖のひながたを伝えるということであります。そして、それを以て、御教えを素直に実行出来る子供を育てるということが、活動の方針であります。
また、創立四十周年に相応しい活動の推進と言葉もありますように、本年は創立四十周年の年でもあります。昭和四十一年十月二十六日に少年会は発足いたしました。本年二月の少年会幹部会の席上、真柱様より、創立四十周年を節目の年と捉えるならば、創立の元一日をふり返り、今までの活動の積み重ねである現在の活動が、主旨とずれていないかを反省し、そして改めて初期の目的が達成されるように、方向を見定めて、次の塚への歩みを踏み出していくということが、節目を活かすということの理想的な歩みである、との内容のお仕込みを頂きました。
ここで、少年会が創立された時の目的、目指すべきところを少し考えてみたいと思います。天理教少年会は二代真柱様の思召しにより発足しました。昭和四十二年開催の第一回団長講習会で二代真柱様は「ようぼくの三信条」の躾について述べられた後に、
「五十年経ってご覧なさい。少年団の訓育は、十五歳の隊長が全部責任を持ってやっておる。青年会の者は青年会だけのことをやっておれば、それでもうよい。その青年会を見習うて十五歳の隊長が、後進を教えていけるんだ。というような日もきっと来る。と私は信じているのであります。」との御理想をお述べ下されています。
五十年経ったなら、ようぼくの三信条、つまり「神一条の精神」「ひのきしんの態度」「一手一つの和」を、最年長である十五歳の少年会員が小さい子供に対して、教えている姿があるのだ。ということをお望み下されていたものと、私は思います。その為には、段々段々と、順繰り順繰りに子供達を成人させていかなければなりません。
その「五十年後」が十年後に迫っております。その節目に向けての出発点がこの四十周年という節目であります。
五十年で少年会活動が終わるわけでもありませんが、五十年後の御理想の姿が、現実の姿となって現れる御守護を頂けるように、またそれ以降も、ますます成人した姿を親神様、教祖にご覧頂けるように、今まで積み重ねてきた活動を顧みて、改めるところがあれば改めて、更に活動を推進してまいりたいと存じております。本年は、教祖百二十年祭の年として、年祭活動の成果をご覧頂きたいと、教内全体が、おぢばへ、おぢばへとおぢばがえりを推進している年でもあります。少年会も「家族揃ってのおぢばがえり」を実行すべき重点項目に掲げました。
また、教祖百二十年祭こどもおぢばがえりに、十万人の大増員ということを掲げさせて頂きました。この年祭活動を、子供にとっての年祭活動、少年会員にとってのにをいがけの機会と、成人の機会と捉えまして、友達を誘っての参加を呼びかけて参りました。更には育成会員にとっての、にをいがけ、おたすけの場とも捉えて、特に昨年は初参加者の増加ということに意識をおいて取り組んで頂きました。
十万人の大増員と掲げましたのは、年祭への取組みの思いを引き継いで、少年会活動を通しての年祭活動の成果を更に大きく御守護頂く為に「こどもおぢばがえり」へ集結したいと考えたからです。子供可愛い故、定命を二十五年縮めて現身を隠された事を、元一日とする教祖の御年祭の年である本年、いつにもまして、教祖にお喜び頂きたいと願っているのは、私だけではないでしょう。その上で、少年会活動を通しては、活動の頂点とも言える、こどもおぢばがえりに例年よりも、その十万人という大増員を目指す事をもって、年祭活動の成果をお見せ頂きたいのです。
十万人大増員と一言で申しますが、並大抵の努力では出来ません。この大目標に向かっては、教会長の皆様方や少年会に携わっている方々だけが、奮闘してもこれは到底難しい数であります。例年、そういった方々は、一生懸命、勧誘に回って頂いております。本当に心を砕いて、こどもおぢばがえりの勧誘に奔走して頂いているのは、重々承知致しております。ですから、ここに居られる皆様方をはじめ、ようぼく、信者の皆様方一人々々が、お心がけて頂き、努力して頂いて、やっと叶う大目標なのであります。
いつも参加はしますが、人様を誘った経験はない、という方ならば、大人であれば、友人の子供や家族を誘う。また、子供であれば、お友達を誘うというご努力も頂きたいわけであります。どうか一人でも多くの方に、お声がけ努力を頂きますように、お骨折りを頂戴致したいと存ずる次第であります。例年参加して下さる方はもちろん、なかなか参加して下さらない方、これまでは声をかけにくかった方、という方々に是非とも声をおかけ頂きたいと存じます。
年祭の年というのは、次の塚へのスタートの年でもあります。そういった努力、丹精、声がけ、骨折りといった事が、これが次の塚への足場固めと必ずなりますので、何卒よろしくお願いします。二月の少年会幹部会で、真柱様は「数だけにとらわれると、後に残るのは、疲れだけである、という事にもなりかねない」ともご指摘を頂きました。こどもおぢばがえり本来の意義を忘れる事の無いようにという事であります。
こどもおぢばがえりは、教祖七十年祭の旬に着手された「おやさとやかたふしん」に全教が勇み立つ中で、次代を担う子供達にも一荷の土なりとも運ばせ、ひのきしんの喜びを味合わせてあげたい、おぢばに伏せ込んで、徳を積ませてやりたい。との熱い思いから、「おぢばがえり子供ひのきしん」として開催されたのが始まりです。ですから、こどもおぢばがえりへ参加してくれた子供達には、お楽しみ行事も必要ではありますが、おぢばへ伏せこむ有り難さという事をも、身をもって伝え、この道を通る喜びを胸から胸へ伝えるという事を、第一にお考え頂きたいわけであります。
・・『教会お泊まり会』から・・
次にお願いしたいのは「教会お泊まり会・親子参拝の実施」であります。教会お泊まり会というのは、これは少年会の、常時活動の核となる活動であります。これは教会に於ける会長さんが、その教会に所属する子供達と、理の親と子のスキンシップが目的であって、大勢の子供を集める事が目的ではありません。場合によっては、一対一でもよいのであります。そうすれば、お年寄りの会長さんで、歌も歌えない、何も子供に楽しませてあげれるような指導は出来ないかもしれないけれども、自分の孫みたいな子供達を寄せてきて、一緒に食事をしたり、お風呂に入ったり、一晩泊まるといった事ならば出来ると思うのです。これが、教会お泊まり会という事の、発想の原点であります。それがいつのまにか、お泊まり会をするという事になると、何人集めなければいけないとか、きっちりしなければいけないとか、規模が大きくなるに連れて、このように難しく考えてしまうようになったのだと思います。 誰でも出来るから「やってみよう」から始まったのが、教会のお泊まり会です。名の通り泊まるだけでいいんです。何かをしなければ、お泊まり会は出来ないという事はありません。少しでも教会に親しみを持つ、教会に行くのが楽しみになる、お道のにおいを嗅ぐ、そういう機会にして頂きたいのであります。子供達を夕方に集めて、そして夕づとめ、朝づとめ、食事をさせて帰すと、それだけをしている教会もあるわけであります。夕づとめと朝づとめと食事は一緒にしますけれども、後は子供達が思い思いに、それぞれで語り合ったり、遊んだりで良いと思います。
私も親元から離れていますが、時々五歳の息子は「おばあちゃんの所へ泊まりたい」と言います。行ったら、泊まるだけです。何も向こうには負担にならないはずであります。それと同じです。本当に教会に所属する信者さんの子供達を寄せてきて泊めてあげる。それだけで本当に親しみを覚え、そして教会に足が向くようになるのです。それぞれの教会に応じたお泊まり会という事を、是非とも開催して頂きたいと思います。
昭和四十二年開催の第一回団長講習会に於いて二代真柱様は、
「少年会の皆さんに対する根本の問題は、親に代わって親の喜びを子供に伝える役割を果たして頂きたい。という一言に尽きるのであります。先程申しましたように、親が色々横の布教に忙しい、縦の伝道にややもすれば手抜かりになる、それを皆の力によって、補っていくという点であります。〈中略〉子供の感化という事、これは教えると言うよりも、感化を示すという事が第一の大切な点は、自ら身をもって示すという事であります。言い換えると皆さん方自身が、ひながたの道を歩みながら、かく付いていらっしゃいとする事が、一つの問題であります。そして私達の、子供の理想ではなくて、我々の理想通りの子供、後継者をこしらえるんだと言うところに意欲を用いて頂きたい。〈中略〉まず皆さん方が、立派な教祖のひながたを歩んでいるところの後継者である。というようになって頂いて、そのひながたによって親に代わって子供を育てていくのである。ということにして頂くのが、一番大切であると申し上げたいのであります。ひながたを歩むにも色々ありましょう。これは常に申す事でありますが、私は三つの信条を、私達の座右に掲げたのであります。一つは神一条、そしてひのきしんの態度、それから一手一つの和であります。やはりこのことをしっかり皆さん方のあいだに於いて実行して頂いて、これを以て子供を導いて頂く」
と、このようにお教え頂きました。
縦の伝道の主軸は「親に代わって子供を信仰の上で育てていく」のであります。ですから、まず親の立場にある私達育成会員が、自ら成人を目指す。という事が何より大切な事なのであります。
・・『こどもおぢばがえり』を・・
最後に今一度お願いを申し上げたいと思います。「こどもおぢばがえり」は日々、月々の地道な少年会活動の集大成です。また、初めて少年会活動に参加したのが「こどもおぢばがえり」だという子供も多くおります。そうした子供にとっては少年会の、またこのお道への出発点でもあるのであります。
前真柱様は、教会の内容充実という事に重きを置いて、よくお仕込みを下さります。その中で、子供というものも、これは教会の重要な一員であるとお教え頂きます。また、真柱様は少年会活動はおつとめの完成の第一歩であるというようにも仰せ下さいます。このように子供に信仰の喜びを伝えるという少年会活動というものは、年齢が上である青年会や婦人会などと同様に、大変重要なものであります。少年会員が運営を賄えるわけではありませんので、大変手間がかかります。
また、青年会や婦人会のように、その活動が直ぐに教会の活性化に現れてくる活動ではないかもしれませんが、少年会に、子供にかけた手間暇、心配りや骨折りという事がまったくの徒労ではないと思います。必ずや将来、結果が現れてくる。そういう御守護を頂けるものだと信じています。
家の信仰に例えるならば、我が信仰を子供や孫へと子孫へ間違いなく伝え、また、発展していくという事を願うならば、小さい子供の頃からしっかりと仕込んでいくのであります。手間や暇をかけて、骨を折って仕込んでいくのであります。これと同様、教会の内容の充実を願い、また、陽気ぐらし世界建設を目指すならば、教会や家庭に於いて、我が子も人の子も同じ心を持って、小さい頃からしっかりと育てていかなければならないと思うのであります。それが少年会活動であります。その少年会活動の集大成でもあり、また、出発点でもある「こどもおぢばがえり」に一人でも多くの参加を頂けるよう、お骨折りを頂きたいと存じます。
参加してくれた子供達が、しっかりとお道の信仰に付いてくれるように、その後の丹精をもして下さいますようにお願いを重ねて申し上げます。親神様が陽気ぐらしを楽しみに人間世界をお創り下された事は、これは申し上げるまでもございません。教祖がたすけ一条の先頭にお立ち下されて、お働き下されている。という事も重々ご承知の事でございます。私達はその教祖のお役に立てる、間に合う、そうした人材に自ら育つ努力をし、次代のそうした人材を育てるという、大きな御用を頂いております。いわば、この道に繋がるお互いは、皆一様に縦の伝道という大きな役割を教祖から頂いているのであります。
子供達に信仰の喜びを確かに伝える事の出来るよう、そのための手間や暇、労を惜しむことなく、苦心と骨折りをさせて頂いて、そして真柱様の親心にお応えさせて頂き、教祖にしっかりとお仕え頂きたいと存ずる次第です。何を今更と、お叱りを受けるような話ばかりではありましたが、今後の参考にして頂ければ、有難い事でございます。誠につたない内容ではありましたが、最後までご清聴を賜りありがとうございました。
(文責 文書布教部)