西海通信 立教178年1月号



●「夫々の足元から たすけの渦を巻き起こしましょう」

大教会長 鍋山善嗣


 西海の理につながります部内教会長、布教所長、ようぼく、信者の皆様方、明けましておめでとう御座います。  過ぎし立教百七十七年は、教祖百三十年祭に向かう三年千日活動の中の年として「二万人おぢばがえり」の心定めを推し進め、帰参者数は一昨年と併せて一万四千三百四十六名を数えるまでになりました。また、年祭活動の柱として春から初夏にかけて、各地で「よふぼくの集い」が開催され、西海からは千五百余名の方々が受講して下さり、年末の十一月二十一日には、井筒梅夫・本部員を巡教員として本部巡教を賜り、「人だすけに苦労することこそ、教祖のひながたをたどることである」と年祭活動の眼目をお仕込みいただくなど、ぢばの理、親の声を重ねて頂戴致しました。
 更には、記念祭に向う三ヶ年の心定めとして「感謝と報恩」を活動の根幹に据え、倦まず弛まず世界たすけを進めて参りましたが、六月二十九日には梅雨時とは思えぬ晴天のお恵みを賜り、大勢の教信者にご参拝頂き、大教会創立百二十周年記念祭を盛大に執行致しました。記念祭間近の六月二十四日には三代真柱・中山善衞様のお出直しという「大ふし」をお見せ頂きましたものの、真柱様の御名代として表統領・上田嘉太郎先生お入り込みのもと、おつとめ奉仕者並びに神苑を埋めるようぼく・信者が「感謝と報恩」の心そのままに、一手一つに勇みに勇んだおつとめを勤めることができたのであります。
 続けて七月二日には筑紫大教会に、十月二十五日には、河原町、湖東大教会に、大勢のよふぼく信者と共々に参拝させて頂き、百二十年の歴史を重みを体感し、西海の道の弥栄をお築き下さいました先人先輩に御礼申し上げることができました。
 そうした日々の中には、三十有余年に亘って全教をお導き下さった前真柱様、西海への八十三年に亘る勤めを、夫である鍋山栄五代会長の五十年祭で締め括られた鍋山ミツ・老奥様をはじめとする多くの方々との別離や厳しいお手入れを頂戴しましたが、年祭の理で「大難は小難に、小難は無難に」とお連れ通りいただいたように思います。
 昨年にはまた、親の理をいただくことこそこの道の基本であることを、改めて実感する機会を得ました。井筒本部員のご講話を拝聴した時のことです。「『人たすけたらわがみたすかる』との教えは、可愛い我が子を一人も余さずたすけたいとの切なる親心の表れであり、そのために教祖は一人ひとりに、その人にしかできないおたすけを用意して下さっている」との下りに、突如として「教祖は、経済的環境的な極貧にある人達の気持ちを解し、欲を去る心の晴れやかさを味わう為だけではなく、誰よりも低いところから低い心で通るところに神のお働きが現れ、世界だすけの渦が巻きおこるという『ひながた』をお示し下されたのだと思う。誰よりも低い心で通るということは、常に神意を求め添い切って、目の前の相手を思いやることである」との先輩の声が脳裏に響き、「人を思いやるとは、心を配ること。心配りとは、文字通り『心配する』ことだ!」と、具体的な自分にできるおたすけに思い至ったのであります。
 教祖年祭のこの旬に、親の理を頂戴して勤めた記念祭の感動的なおつとめを台として、西海につながる全ようぼく信者挙って、ひたすらに神意を求め周囲に心を配って自分にできる、自分だからできるおたすけを見つけ、真実を尽し、夫々の足元からたすけの渦を巻き起こしましょう!
 本年もどうぞ宜しくお願い致します。



●新春一月四日〜七日 お節会団参を実施


 新春恒例の「お節会」(5日〜7日)に団参を実施、35名のご参加をいただきました。4日朝に大教会を陸送で出発、5日午前中にお節を頂き、夕方のフェリーで帰会致しました。
 4日5日ともにお天気に恵まれ、麗らかな陽光が降り注ぐ新春のおぢばで、お下がりの切り餅に水菜を添えたお雑煮を頂き、新春ならではの親里の雰囲気を存分に堪能させて頂きました。
 初参加の方も「行ってみて良かった」と出発以前とは見違える程の笑顔と喜びの声をいただいた団参となりました。来年も多くのご参加お待ちしております。



●立教百七十七年度布教の家リポート

 ただいま三名の方々が布教の家に入寮し、にをいがけ・おたすけに明け暮れる日々を送っています。三月の卒寮まで精一杯つとめようとするお二人の様子をリポートいたしました。今月は東京寮の杉山純一さんと福岡寮の鬼木大さんのお二人です。


◎東京寮  杉山 純一 (境港分教会)

 七割の不安と三割の希望を胸に、布教の家に入寮して早いもので、九カ月が過ぎました。入寮前は自教会で青年勤めの真似事の様な事をさせて頂いていましたが、にをいがけに歩くのは月に一、二回程度。そんな私が一日二食で毎日にをいがけに歩く日が来るとは夢にも思っていませんでした。そんな私の布教の家での最も印象に残っている出来事は、初めておさづけを取次がせていただいた時の事です。
 東京寮では毎日夕づとめ後に皆でミーティングをします。そこではその日の訪問件数、パンフレット配布数、おさづけ取次ぎ回数を報告するのですが、私はなかなかおさづけを取次がせて頂くことが出来ていませんでした。
 にをいがけに回り始めて二週間経つ頃には同期の中でおさづけを取次いでいないのは私だけになってしまいました。今まで余りにをいがけの経験も無いし、そんな簡単にに取次がせて頂ける訳が無い。回っていればそのうち取次がせて頂ける。などと自分に言い聞かせてはいましたが、流石にひと月も経つ頃にはかなり焦っていました。そんなある日、休憩がてら公園で考え事をしていると、自分が最も大事な所を思い違えている事に気が付きました。それは、兎に角おさづけを取次がせて頂きたいという気持ちばかりで、肝心の人をたすけさせて頂くという気持ちがどんどんと薄れてきているのではいないか?という事です。そんな自分本位の考え方で回っていたのでは全く意味が無い。これからは初心に帰り、人をたすけさせて頂きたいという心で回らせて頂こう。と思いを改めました。するとその数日後、とある駅前を歩いていたところ、道の端でうずくまっている50代位の女性に遭遇しました。どうした事かと思い声をかけると、足の震えが止まらないので二駅先の掛り付けの病院に行きたいのだが、震えのせいでうまく歩けず座りこんでいたという事でした。早速私は自分が天理教の布教師である事、今からその方の足の震えが治まる様におさづけを取次がせて頂きたい旨を説明しました。するとその女性は快く取次がせて下さいました。そして二駅先の病院まで送って行き、連絡先を交換して別れました。それまでおさづけを取次がせて頂けなかった事。そしてこうして今取次がせて頂けた事。これらはすべて布教の家に入寮して、それなりに布教しているつもりになっていた私への「人をたすける心をしっかりと持つように」との親神様からのメッセージではないかと思わせて頂きました。
 残念ながら現在その女性とは繋がっておりませんが、改めて自分の思いの未熟さを思い知らされた出来事でした。
 布教の家での生活も残り三カ月を切りました。残りの期間も人をたすける心を持って通らせて頂きます。



◎福岡寮  鬼木 大(梅年分教会)

 一昨年11月に大教会長様から来年布教の家に行ってみてはどうかとの親心のお声を頂き、私は悩みに悩んだ末、そのときの自分自身を脱却するため、又このお道を通らせて頂くあらきとうりようとして、教祖130年祭おたすけの旬に年祭活動をつとめさせて頂きたいと思い、心を決めて布教の家福岡寮に入寮させて頂きました。
 福岡寮に入寮させて頂き、まず初めに遭遇した問題は、私が生まれ育ったこの福岡での布教は、街を歩けば知り合いや顔見知りの人に出会うということでした。にをいがけや神名流しの途中でよく知り合いに出くわします。以前までこの街でミュージシャンをしていた自分ですから、私が天理教の布教師であることを知らない人ばかりです。「鬼木!久しぶりやね、何しようと?」と聞かれます。そのたびに私は「俺は天理教の布教師やけん、人だすけに歩きよるっちゃん!」と答え、何かよく分からないなという顔をしている知り合いに対し「何か困った事があったら、何でも言ってきちゃらんかいな!」と、お道のパンフレットを渡し歩き去っていくということがたびたびありました。
この経験を通してまず己の腹にある「人に良く見られたい」というプライドや今までのメンツを捨て、私は天理教の布教師であること、教祖の御教えを伝え広めるあらきとうりようであることを再々自覚させられました。
みかぐらうたの三下り目に「五ッいつもわらはれそしられて めづらしたすけをするほどに」とありますように、このお歌にある神意を胸ににをいがけに歩きました。 毎日、戸別訪問や道行く人へお声掛けをしても、水をかけられたり、「天理教は要らないです」「警察をよびますよ」など断られたりすることがほとんどで、なかなかお話を聞いて頂けません。人生の中でこんなに頭を下げたことがないというぐらい、来る日も来る日も頭を下げっぱなしで、不快感いっぱいだったのですが、その中にも、自分自身の高慢な心が、削ぎ落とされていくような不思議な感覚に見舞われ、爽快感すら覚えるのでした。
そんな中、病院へ行ったらおたすけをさせて頂ける人に出会えるだろうと思い、病院回りをさせてもらうことにしました。病院はもちろん宗教活動が禁止されているところばかりですから、声をかけても看護師や職員に通報されればすぐにつまみ出されます。毎回緊張しながら「教祖のお伴をさせて頂くんだ」と、勇気を振り絞って向かいました。病院回りを始めてから三日目にサムソンさんという、アメリカ国籍の黒人の方に出会いました。彼は糖尿病で右足の指先が壊死し、指先はおろか足の甲まで切除された方で、来週は左足を同じように切除しなければならないという状況の方でした。私は早速おさづけを取次がせて頂き、それから退院するまで毎日おたすけに通わせて頂きました。そして、その方の身上平癒を祈って、お願いづとめをつとめさせて頂きました。
すると、病院の先生も驚くほどに状態がよくなり、左足を温存することができるというところまで回復いたしました。この鮮やかな御守護を目の当たりにしたとき、私もサムソンさんと共に涙を流し喜び合いました。
 サムソンさんは、救けて頂いたお礼を神様に申し上げたいと言ってくださり、おぢばへ帰らせて頂くことになりました。しかしおぢばがえりの三日前から連絡がつかなくなり、とうとう帰ることはできませんでした。
 私はこの節をどう受け止めて今後通るべきなのか真剣に悩みました。親神様・教祖のお働きあればこそ、御守護頂いたのに、その方をおぢばへお連れすることもできない。そのとき、己の真実の足りなさと、信仰の甘さを痛烈に感じました。世界たすけの道具衆であるようぼくとしての自分の通り方、思うように日々にをいがけに回れない情けなさが私の頭と心をよぎりました。
 年祭活動の旬に布教の家に入寮させて頂き、本当にありがたいと思います。ここで体験した悔しさをバネに、教祖130年祭当日には、喜んでやりきったと少しでも言えるよう、親々の信仰に恥じない自分自身であるよう、布教の家での残された三ヶ月、そして年祭までの時を大切に過ごさせて頂きたいと思います。


●『余談ですけど…』其の百


▼仕上げの立教百七十八年を迎えた。体調を崩しやすい年末年始だが、今回は有難くも何とか乗り切ることが出来た。そして年の瀬と年始、教区の呼びかけに応えて献血まで出来た。なんと有難いことだろうか ▼日本赤十字社によると、年末年始は輸血用血液が不足するという。企業や学校など団体に協力をお願いするが、思うように血液は集まらないという ▼現在は献血という無償奉仕で血液を集めるが、昭和四十年頃まで売血制度で血液は集められた。「血を買う」「血を売る」時代だったのだ。金銭欲しさに売血を繰り返す人たちや、検査の不十分から汚染した血液が出回るなどの弊害から、提供者のモラルが期待できる献血制度に切り替わって行き、昭和四十四年に売血制度は終息した。ところが皮肉なことに、現状の不足分は売血制度のアメリカから買っているという ▼「献血で親身に協力して下さる宗教団体は天理教だけです」と、日赤から伝えられたと教区担当者が発表していた。私もそれを聞いて嬉しくなって、家族や信者さんと共に献血センターへ行った ▼「教祖年祭に向って、私にも熱い血液を輸血したいものだ」と思ったが、すぐに思い返した。この場合は輸血に頼ってはいかんのじゃないかと。年祭活動のラストスパートを駆け抜けるための熱い血は、輸血で得るのではなく、自らを熱く燃え上がらせることによってのみ得られるものではないかと。